①ずっと社会不適合だと思っていた私が、“好き”を仕事にするまでの道のり

ずっと社会不適合だと思っていた私が、“好き”を仕事にするまでの道のり

~臨床検査技師・営業・UIデザイナーを経て見つけた答え~

目次

学校、職場…集団に馴染めない私が、ようやく“好き”な人生を歩み始めるまでの話。遠回りに思えた選択も、すべて今の自分に繋がっていました

こんにちは、ふるきあゆみです。
私はフリーランスとして活動しながら、絵本作家としての出版を目指しています。そして日々の暮らしや気づき、創作活動を通して、同じように「自分らしさ」を模索している方と想いを共有したいと考え、ブログ記事を執筆中。
私がどんな人物か知ってもらうため、今までの人生をまとめてみました。

自己紹介|“好き”を隠していった子ども時代

私が絵を好きになったきっかけは、幼稚園の時。絵の先生に「大きくのびのびと描いて、すごく良い絵だねぇ!」と褒められたのがとても嬉しくて。そこから、絵を描くことは“自分だけのたのしい時間”になりました。園での休み時間や、母がカフェで友人と話している間など、私は横でずっと絵を描いていました。
休日には祖父母の家に一人でお泊り。甘やかされていたので何をしても怒られず、自由を感じたのです。

しかし当時、両親は私に社交的であることを望み、園の先生にも「子供は元気に外で遊びなさい」と言われ、無理して友達と遊ぶようになりました。一人の時間が好きなのに、親同士が仲の良い子や、近所の子が誘ってくれた時には、遊びに行かなければならない…(贅沢な話ですが)。本当の私は人に合わせることが苦手で、自分を曲げられない頑固な性格だったのです。

好き

工作で作った作品が気に入っていたのですが、園バスの運転手さんにあげることになって泣いたり、先生が意地悪だと感じて「先生キライ!」と言って反抗したら、クラスから追い出されたり。自分の気持ちを出しすぎると集団ではうまくいかないことを学習し、悲しくなったことを覚えています。
「自分の気持ちは後回しにするべき」そんな経験が、この頃から始まっていたのかもしれません。

小学校では、絵のコンクールで表彰されたり、社会科見学のしおりの表紙を描くのが楽しく、「私はこれが好きだ」と思えていました。一方で、”自分”が強すぎて周囲に馴染めないことも増えていきました。
仲良し女子で派閥を作り、従わない子の悪口を言うクラスメイトが嫌で、その子達に意見したら孤立。
学校生活では孤立すると大変なことが多く、次第に“本当の自分”を隠し、周囲に合わせるようになっていきました。

中学時代|“好き”はあっても、怖くて出せなかった

中学校では孤立するのが怖くて、バドミントン部に入ったり学級委員をしたりと、“協調性のある明るく元気な子”を演じようと努力しました。でも、やっぱり絵は好きで、お小遣いで画材を買ったり、途中からイラスト部に入り直したり。文化祭で出したイラストカードが予想以上に好評で、「やっぱり私、絵が好きだ」と再認識した出来事でもありました。

兼任した放送委員会では昼休みにラジオ放送を担当し、自らアナウンスをしながらリクエスト曲を流していました。「誰かを楽しませたい」という気持ちが芽生えたのもこの頃。また、妹に描いてあげた絵本をとても喜んでくれたのも、心に残る体験です。

けれども当時の私は、”友達思いで明るく元気な存在”であることを期待されていました。必要とされることは嬉しかった反面、絵やイラストに夢中で、一人の時間を大切にする本来の自分との間にギャップを感じていました。
でも、また孤立するのは怖い。そうやって、自分の好きを押し出していくことがどんどん怖くなっていました。

高校時代|“好き”が分からなくなった日々

高校受験では必死に勉強して地元の進学校に入学。友達との交流や水泳部の活動など充実した日々を送る一方で、絵を描くことはほとんどしなくなっていました。友人との青春はかけがえのないものでしたが、周囲にどう見られているかばかりを気にして、「好き」を遠ざけていく日々。

さらに、在学中に両親が離婚し、母が再婚。義父とはうまくいかず、思春期だった私は次第に心を閉ざし、自暴自棄になっていきました。

周りの友人は将来を見据えて受験勉強に本腰を入れだしても、自分は現実逃避ばかり。将来のことなんてちっとも考えられませんでした。そんな私を心配した担任の先生がある日、「ふるきノート」と書いたノートを渡してくれました。心の内を話せるよう、交換日記をしようと言ってくれたのです。でも私は結局、1ページも書かないままでした。何を書けば良いか、自分でも心の内が分からなかったのです。

「自分って何が好きなんだろう?」
そんな問いにすら向き合えず、“生きるために流される”選択ばかりしていました。

好き

大学受験と挫折|親の期待と、自分の気持ちのズレ

大学受験では、動物が好きだったことから、母に「獣医になれば?」と勧められ、国立大学を目指しました。しかし、明確な夢や目標がないまま難関校に挑んだ結果、不合格に。浪人生活が始まりました。

将来に対する希望も見えず、「自分探し」と言い訳しながら、ただアルバイトに明け暮れる日々。そんな中、母に勧められるまま、「臨床検査技師」の資格が取れる大学に進学しました。自分の意志というより、“これなら親が納得してくれるかもしれない”という気持ちの方が大きかったように思います。

自分で選んで受ける大学の授業は新鮮で、学ぶことの楽しさを実感しました。手を動かす作業も好きだったので、実験や実習にもやりがいを感じていました。しかし、国家試験が近づくにつれて、臨床検査技師としての専門教育に専念する毎日となり、次第に楽しさを感じられなくなっていきました。心の底から検査技師になりたいと思っていたわけではなかったため、自分と周囲との間にモチベーションの差を感じるようになったのです。

中途半端な自分に疑問を感じながらも、奨学金を借りて通う苦学生だったことや、「ここで辞めたら逃げたことになる」と思う気持ちから、せめて国家資格だけは取ろうと決めました。アルバイトに明け暮れて留年の危機にも直面しながら、なんとか国家試験に合格。就職はあまり考えていなかったのですが、実習先の病院で評価をいただき、内定をもらうことに。現実的に生活費も必要だったため、臨床検査技師として社会人生活をスタートさせました。

臨床検査技師としての葛藤|やりがいの裏で感じていた”温度差”

こうして社会人生活がスタート。病院実習でご縁のあった大手病院に就職し、「ご恩に報いる為にもここでしっかり医療に貢献したい」という前向きな気持ちで仕事に臨みました。

患者さんからの「ありがとう」という言葉や、医療の現場に関われることにやりがいを感じる瞬間も確かにありました。命を預かる責任ある職場で働けることは誇らしく、仕事にも真剣に向き合っていました。けれど日々働く中で、次第に自分の中に違和感が芽生えていったのです。

病院という組織には、暗黙の了解や“理想とされる振る舞い”のようなものが存在していました。たとえば、プライベートでも同僚と密に関わることを前提とした付き合いや、上司のやり方に従うのが当然とされる雰囲気です。そんな中で私は、「もっとこうすれば良くなるのでは」と感じたことを医師に伝えたり、チーム内で改善案を提案したりしていました。けれど、そうした行動は“空気を読めない”と受け取られ、次第に周囲から距離を置かれるように。中には評価してくださる方もいましたが、どこか「扱いづらい存在」として見られていたのです。

頑張っているのに、なぜかうまくいかない。
気を遣っているはずなのに、どこか浮いてしまう。
そんな日々が続くなかで、私は少しずつ、自分の気持ちにフタをして生きるようになっていきました。

好き

「このままでいいのかな」
「私は、何のために働いているんだろう」
そう感じたときにはもう、限界が近づいていたのかもしれません。
やりがいも、誇りも確かにあった。けれど、自分の“ありのまま”を受け入れてくれる場所ではなかった。

私は病院を辞め、次の道を探し始めました。でもその時の私は、まだ“本当に好きなこと”なんて、わかっていなかったのです。
迷いの中で選んだのは、まったくの異業種。“営業職”という、これまでとは正反対の世界でした。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

4歳の監督にしごかれながら絵本作家を目指して活動中。
“私らしさ”をエネルギーに、日々のひらめきを形にしています。
【経歴】
臨床検査技師、治験営業、職業訓練、UI/UXデザイナー
【趣味】
ヨガ、絵本探し

目次